画像処理,研究実験施設,自動制御装置のカスタマイズ[森技術研究所]

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大きくなったら何になる(創業者:森 淳彦)

幼稚園の頃までは、電車の運転手が人気ベストワンでしたね。
兵隊になるのが当然な時代でしたから、大きくなるに従い予科練だったり幼年学校や士官学校など、その時の映画で有名になったものに対し、子供心で熱病のように人気が集中していました。 軍事関連以外を口にできる雰囲気はなかったのも事実です。
小学生当時の私の家の近く(京都市南部)に国際航空機工業と言う会社と飛行場があり、毎日のようにオレンジ色の複葉練習機(通称赤トンボ)の飛んでいるのが校庭から見えました。 丁度、その頃、叔父がその会社に勤務する事になり、時々遊びに来ては飛行機の話をしてくれました。
彼は技術屋だったので、操縦系統や、材料や、翼の断面形状など、例え練習機とは云え、当時そんな話をすればスパイと間違われたかも知れない話をしてくれました。 時には、廃品から拾ってきた羽布(胴体に張ってある布)の日の丸部分の切れ端を内緒で呉れたりしました。
家の前の道は師団街道と呼んで、近くには幾つかの練兵場があり、歩兵がよろよろになって殴られながら行軍するのや、足で蹴られながら匍匐前進しているのをよく見ていましたから、軍隊というものの持っている体質に嫌悪を抱くと共に、兵隊になって銃剣を持ち、弾の飛んでくる中へ突撃するのだけは絶対に嫌だとの思いがつのっていました。 そんな頃、飛行機の設計技師になれば、戦争に行かなくても良いと閃いたのです。
中学校の入学試験は戦争末期と言う事もあり、内申書と校長の面接のみでした。
将来何になるか?と聞かれたとき、わたしは「航空機の設計技師になります」と明確に答えました。
後に、当時の校長と会った時、みんな軍隊へ行くと答えたのに、たった一人変わった奴だと印象に残ったのでよく覚えていたと云われました。
兵隊になるのが怖かったのだとは気が付いていなかったようです。
しかし、敗戦と共に日本は翼をもぎ取られ、航空機関係へ進む道は閉ざされました。
それから10年後、専攻は異なりましたが「・・航空機工業」と名のつく会社(当時では多分唯一だったような気がします)へ入社しました。
別の形ですが、いまでも飛行機に縁のある仕事や遊びが出来ているのはその時の「夢」が叶っていると思っています。

積算温度計を製作しました。

積算温度計は、設置場所の温度を一定周期で測定し、1時間毎に温度測定値と基準温度との差分を積算します。それにより、施設園芸・畜産・水産物加工業界等の生産物管理工程でのタイムリーな時期を知らせる上でお役に立つと自負しております。